永世元(1504)年、相良氏に敗れた名和顕忠(なわあきただ)は宇土城に退き、代わって相良氏が八代を領有することになりました。
相良長敏(さがらながとし)は古麓城(八代市古麓町)に入り、相良氏の重臣を各支城に配置しました。この時、上土城主として入って
たのが、興善寺城代(こうぜんじじょうだい)相良伊勢守(さがらいせのかみ)の与力、岩崎主馬忠久(いわさきしゅめただひさ)です。
岩崎主馬は、文武両道に通じた、領民思いの武将だったといわれ、領民のために、永正元(1504)年、領内の古閑・渕前にい草を
培させたと言われています。これが千丁でのい草栽培の始まりです。い草の原種については、「千丁村史」によると、(1)八代市川田
の射鳥越から、(2)備後国から の二説がありますが、はっきりしたことは分かっていません。しかし、寛永13(1636)年の古文書には
太牟田表」の名称が見えますので、い草の栽培が盛んになり、遅くとも江戸時代初期には太牟田表(ゴザ)が広く知られていました。
ではい草生産量日本一を誇っています。
岩崎主馬は永正元(1504)年から天文12(1543)年まで在城し、その後、村山飛騨守(むらやまひだのかみ)が入城します。その
山飛騨守は、主である相良義陽(さがらよしひ)が薩摩の島津氏に従い、甲斐宗運(かいそううん)を攻めることになりましたが、
天正9(1581)年の響ヶ原の戦いで相良義陽も村山飛騨守も戦死し、それ以後、廃城となりました。現在、上土城の遺構は残ってい
せんが、「城(じょう)」、「うて(大手の意)」などの字名、小名が残っています。
上土城跡には、い草栽培を始めた岩崎主馬忠久を祀る岩崎神社が建てられています
創業 昭和元年 1926
イ草の “神様” 岩崎神社
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